2021-06-09 第204回国会 両院 国家基本政策委員会合同審査会 第1号
○枝野幸男君 私は、東日本大震災と原発事故のあった二〇一一年の通常国会、菅総理の下で七十日間という長期延長をして、野党自民党の意見も伺いながら対応に当たりました。大変貴重な御意見を様々いただきながら進めることができました。 仮に解散・総選挙をしても、一か月半ほどで国会は開きます。
○枝野幸男君 私は、東日本大震災と原発事故のあった二〇一一年の通常国会、菅総理の下で七十日間という長期延長をして、野党自民党の意見も伺いながら対応に当たりました。大変貴重な御意見を様々いただきながら進めることができました。 仮に解散・総選挙をしても、一か月半ほどで国会は開きます。
大臣が野党自民党のときは、私も厚生労働大臣のときに、大臣が野党で質問して、相当厳しい質問をしていましたよね、いろいろな意味で。今回のようなケースでは、大臣、減給とかでは済まないですよ。本当に責任をちゃんと取ってもらわないと。
これは、当時の野党自民党にも最終的に協力をしてもらいました、ねじれていましたから。 やはり、幾らコロナ禍とはいえ、これは見直すべきなんじゃないかというさまざまな分野をきちっと洗い出して、それで、歳出も歳入も見直すという姿勢でいってくれないと、私は、将来世代に顔向けできないと思いますよ。いかがですか。
不妊治療の保険適用対象も、当時、十年前、提唱しましたけれども、なかなか与党の皆様方、当時の野党自民党の先生方の中には、子供を授かるということに関してどこまで国家が関与すべきかという御異論も賜ったというふうに承知しています。
その一つは、これはもう私のざんげですけれども、二〇一二年に、当時は私ども与党だったんですが、野党自民党の強烈な抵抗で、特例公債法がずっと成立しないまま十一月までいったんですよ。あのとき、予算では赤字国債が三十八兆入っていたので、三十八兆を使えないで地方交付税も出せないと行き詰まりました。
十年前、私どもが高等学校の無償化を提案したときには、大変、当時の野党、自民党の皆様はばらまき何とかと言ってやゆしていただいたことが懐かしく思えますけれども、十年の歳月を経て、何と先月一日から幼稚園、保育園の基本料金無償化が始まっています。隔世の感がありますと同時に、十年前言ったことは正しかったんだなと今思いますね。
一方、当時、衆院解散や菅直人首相の退陣を求めて対決姿勢を強めていた野党自民党はどう対応したか。 谷垣総裁は、菅直人首相に電話で政府の対策に全面的に協力すると伝えたほか、脇雅史参院国対委員長は、政府には地震対応を最大限やっていただく、我々はどんな日程調整にも応じる。小坂憲次参院幹事長は、とにかく全面協力する、与党のやりたいようにやってくださいと伝えてあるとコメント。
TPPで米国に食われると危機感を訴えていた野党自民党が、政権を取ってからTPP大推進に豹変。歴史に残る見事な手のひら返し、もちろん黒歴史ですけどね。 しかし、結局、米国は損をするからとTPPに入らないことに。
ちなみに、二〇一二年十一月の党首討論で、当時の野党自民党の安倍総裁は、選挙制度についてこうおっしゃっています。少数政党の意見を聞かないといけないという趣旨の発言をされ、民主党と自民党が民主主義の土俵を全て決めていい、傲慢な態度ですよ、共産党だって社民党だって、政党はたくさんあると発言をされております。
○岡田委員 私が外務大臣のときの野党自民党は本当に激しかったですよ。本当に、平日、海外に出るというのは、よほど限られた、決められた会議しか許してもらえなかったですよ。副大臣はもちろんいましたよ。だから、今、声高に言われるのは私はいかがかと思いますよ。 やはり、これは話合いで、我々もむちゃを言うつもりはないんです。
というのは、これは不思議なことに、我々が与党のときは、野党自民党はこういう法律をつくろうと盛んに提案をされました。逆になると、政府・与党の側に立つとこのことを言わないんですね。我々も逆に言うとそうだったですよね。昔、野党のときは財政健全化責任法みたいなのをやれと言っていて、自分たちが政権をとると閣議決定だけだったんです。どうも与野党でお互いに立場が変わっちゃうと忘れちゃう議論なんですけれども。
野党自民党の時代も、これは技術的な事項だから政府参考人をつけさせてくれと何度もお願いをしたけれども、だめだといって拒否された。それでも、こんな強引な形で政府参考人をつけるだなんてことはしませんでしたよ。前代未聞の政府参考人強行です。 しかも、我々、嫌がらせのように政府参考人は一切認めないなんてやっていませんでしょう。
私は、参議院で、おまえに聞いていないから手を挙げるなと、答弁することを、国務大臣ですよ、しかも法令解釈担当というのをつけられて、個別の省庁を超えた所管を持っていたんですよ、だけれども、野党自民党は、質問する側に権利があると言って、答えるなと国務大臣の答弁まで制限したんですよ。 衆議院規則に基づいて、質問する側がこれは大臣に聞く、基本的に当たり前のことじゃないですか。だから怒っているんですよ。
なぜ私がこれを強調するかというと、私は、野党自民党にさんざんそのことを言われて、関係のない委員会に行って、理事会に行っておわびをすることを何度もやったからですよ。本当は、これは官房長官にここに出てきてもらっておわびしてもらうような、野党自民党の時代の前例からすればそういう性質のものだということを申し上げておきたいと思いますが、委員長、必ず善処してください。
そう言って、政府参考人をつけさせてくれという話を言ったのに対して、野党自民党は一切応じませんでしたよ、野党自民党は一切そのとき応じませんでしたよ。私たちは、そのとき、強引に押し切ってまで政府参考人をつけるだなんということをしませんでした。みっともないですもの。大臣に答弁能力がないということを全国民に知らせることだから。だから、恥ずかしくないんですかと聞いたんですよ。
まさに間近に、野田総理、そして当時の野党自民党党首、安倍晋三党首のやりとりを聞いておりました。もちろん、その中身もよく覚えておりますし、承知をいたしております。また、あの二人の討論によって衆議院が解散の運びになったということも、御案内のとおりでございます。 国民が見ている国会の場で、総理大臣と野党第一党の党首の討論でございます。
現行の衆議院比例代表並立制を導入した一九九三年から九四年にかけての政治改革国会でも、細川連立与党と野党自民党が激突をいたしましたが、最終的には、細川・河野会談を受けて連立与党が野党自民党の主張を受け入れる形で合意し、成立をいたしました。
○藤巻健史君 円安を目的とするというと国際社会からたたかれるので、そうおっしゃらざるを得ないんだと私は理解しておりますけれども、ただ、アベノミクスが最初の頃に非常に成功していたのは、総理がまだ野党自民党の総裁のときに、八十円のときに、これは円高がいかぬと、円安にしなくちゃいかぬということを野党総裁としておっしゃってくださって百二十円まで行ったから、最初アベノミクスは成功したと私は思っています。
六年前、野党自民党にはせ参じ、日本を取り戻す戦いに参戦したときに、自然と自分の中からこの言葉が出てまいりました。私の原点として、これからも貫いてまいりたいと思っています。 総理、この私の政治信条はいかがでしょう。
そして、野党自民党において、TPPで守るべき基準を示し、政権奪還の政権公約で、聖域なき関税撤廃を前提とするTPP交渉には反対を掲げて政権を取り戻したところです。 二〇一二年末に自公が政権復帰し、安倍政権がスタートして以来、米国との事前調整、そして国内の体制整備を粘り強く積み重ね、聖域なき関税撤廃を前提としないということを確認した上、二〇一三年七月に正式に交渉が開始されることとなりました。
ただ、それが、やはり行革の流れと逆行して、我々政権のときにも、復興大臣を置くことですら、当時の野党、自民党の皆さんは大変な御批判もあった。やはり、行革の流れというものとよくよく整合性を保ちながら考えていかなきゃいけない。 それで、私は、こういうJSCの豪華ビルが新たに新築をされる一方で、霞ケ丘アパート、これも行ってきましたよ。
この行動について、率直に言って、当時、野党、自民党の方からも相当な批判を受けました。その後、政権につかれた自民党の方から厳しい批判を受け、識者からも批判を受けました。